私が幼少のころは、夏休みともなるとぼんやりと一日過ごす日が何日もあった。
中学受験などもなかったし、宿題もたいした量ではなかった。大学に入っても夏休みは
アルバイトもせずに、クーラーもない下宿でぼんやりとしたり、何日も小説を読んだり
することが多かった。
いま、年代問わず、ぼんやりとする時間が少なすぎるように思える。ぼんやりと
することは体をやすめるだけでなく、考えをゆっくりと整理したり、思考を休めたり、
生きていく上で大切な時間だと思う。
流れる川をじっと見る、雲の形が変わっていく様を眺める、奥深い山々に絡みつく
ように這う霧を眺めるなど、古代から人間の生活の中にあった習慣の大切さを、
夏休みを機にやってみるのもよい。
ぼんやりする時間
将来どうなるか解らない方がおもしろい
自分の年収、受け取る年金、会社での地位など将来が見え過ぎているとも言えるし、見えなく不安であるとも言える。しかし、どちらかと言えば見えすぎてつまらなくなっているような気がする。人類は常に自然界で、病、災害、戦争など見えない世界と戦って、生き延びてきていたはずである。実は数万年以上の歴史の中でこれほど見えてしまっている時代は無かったのではないだろうか。
本当の生きている実感とは、過去とは全く異なる変化する見えない世界の中で瞬間、瞬間を生き延びることなのだと思う。見える世界ばかりを相手にしてきているから、見えない世界に脆弱になっているような気もする。
企業経営も、確実性ばかり追究され、不確実な中でどう成長させるかが忘れられている。
分別しすぎないこと
アメリカ、日本、欧州などのいわゆる「先進国」の景気があまりよくない。それに比べ中国、ブラジル、ベトナムなどの新興国が依然元気である。よく考えてみると「先進国」の景気悪化のきっかけは、すべて経済統計データーにある。先進国では社会、経済活動が、キチンと論理立てられ、データー化されている。そしてそれがICTでリアルタイムで管理されている。悪い情報は瞬時に「先進国」の間で連鎖する。
一方新興国の社会経済統計データーは、それら「先進国」と比べ信憑性に欠け、リアルタイムではない。そのせいか経済も統計データーよりも、自分の肌感覚、相対の取引関係が中心に経済活動が進められている。
先進国の不況はデーター化されすぎた社会のつまらなさを表しているようだ。何もかも分別しすぎなのである。
ビジネスにおける結果から考えることの重要性
日本も高度成長時代はもっと結果からものごとを考えていたのだと思う。
決してものごとの「プロセス」を粗末にするつもりはないが、今の日本の企業、
行政などの組織は、結果と結びつかない無駄なものが多くなりすぎて、
「プロセス」としても意味のないものが多いように思えてならない。
いったんすべてやめてしまう。そのぐらいの発想がなければ
日本経済や社会の先は見えないのはでなかろうか。
その点で成熟した日本人、日本の組織はアジアの成長する国や
そこで働く人に学ぶことが多いのではなかろうか。
彼らは常に急いでいる。だからいつも結果としてどうあるべきか?
そのために何が必要なのか?それは世界のどこにあるのか?と
結果から発想している。
今の日本にとって現代の成長する国とそこに働く人から学ぶことは多い。
成熟した日本の生き方
米国でのトヨタの品質問題が大きな話題になっている。
米国系メーカーでは「Don’t Drive Toyota」というネガティブキャンペーンを行っていると聞く。
敵の失敗に乗じた一つの戦略であるが、日本は、外国企業や人に対しては
そのようなことは慎みたいものである。
そう考えると一昨年、昨年のサブプライム問題による経済の混乱でも、
一方的な米国批判はナンセンスである。
確かに米国経済は反省すべきことはたくさんあるが、日本企業や社会が
それとは全く関係なかったとは言えない。
現在の中国はどうであろう。
市場経済ではまだ青年期とも言える成長力で、ともするとねたみから中国の環境問題や
共産党独裁などと酷評したりすることも慎まなければならない。
日本もかつて同じ道をたどってきたからだ。
むしろ今の中国社会から学び、うまくいっていないところは支援すべきである。
日本は長期的な視点に立ち、粘り強く世界の地域、国と信頼関係をつくり、
学びあうべきである。現在のグローバル社会は「学習のアライアンスネットワーク」が
最大の課題だと思う。
「グローバル化」の本質
最近考えていることの一つに「グローバル化」の本質というのがある。ここ数年
「急激な経済のグローバル化」に対して様々な批判が出たが、しかしそれは
避けられない時代の流れである。
それではあるべきグローバル化の本質とは何か。このことをずっと考えいるのだが、
いまのところ私の中では「アイデンティティの深掘りと新たな共創・創発」ということに
なっている。
相対的な違いや多様性にさらされることは「自分とは何か」を考えさせられ、
大事にするきっかけである。また多様性はこれまでになっかたアイデアを
「共創・創発すること」につながる。短い人生でこの2つのメリットを享受できることが、
今の時代に生きることのおもしろさ、幸せかもしれない。
業績をよくするとか、お金をたくさん貯めるというのではなく、「自分とは何か」と
「自分と周りのの関わりの中での新たな発見」この2つの考えが感じられれば
幸せなのではないか。
日本企業の「製品・事業開発力」が低下している
10年前と比較、日本企業の「製品・事業開発力」が低下しているように思える
原因はいろいろ考えられるが、我々が最近ビジネスの現場で把握していることは
①売り上げ維持のための製品ラインアップの増加、
②情報化、デジタル化による分業の徹底(企画の一部しか担当できない)
③製品サイクルの短期化
④ネットサイト2次情報などへの過度の依存など企画情報の質の低下
⑤経験不足からくる若年層のコンセプト企画力の低下
などではないだろうか。多くの企業では、生活者、顧客の真の実態を把握する
余裕もなく次々と新製品が出され、撤退していくことが多い。その結果
「組織の中で、顧客、生活者の使用実態やその背景を見ている人は、実は誰もいない。」
ということが多くなっているように感じる。
そこで、ニューチャーネットワークスでは実際の生活者の生活背景を「直接把握」し、
生活者と共同で製品・事業企画コンセプトを行う、ワークショップを行っている。
来る2月18日のセミナーでは、40歳代の生活者と女子大生の方をお呼びして一緒に
ワークすることを企画している。ワークショップでは生活者の実態を客観データ
として把握するだけでなく、直接対話を通じ「主観的」に感じ、認識することから
独自の製品アイデア、事業アイデアを企画する手法、場作り、コンセプト企画手法
を体験してもらうものである。
マーケットリーダー“女子大生・アラフォー”を巻き込んだ
『製品・事業開発力強化』セミナー
~生活背景の文脈から発想する製品・事業開発~
http://www.nuture.co.jp/nuture_site/node_393/node_602
ウイスキーにみる日本のモノ造り
いつも大阪から京都の間、少し京都よりで新幹線の車窓から見えるサントリー山崎蒸留所。
正月明けの最も寒さが厳しい8日、高分子化学関係の研究者や企業人が集まる会が
その京都山崎で開催された。
そこで、NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」でも取りあげられた世界トップクラスの
ウイスキーのブレンダーである輿水精一氏に1時間ほどお話を伺う機会を得た。
輿水氏の話のなかで印象的だった話を紹介する。
同じウイスキーで同じような作り方だが、日本のウイスキーづくりは
本場スコッチウイスキーとは違うところがある。
・作り手のバランス感覚
・協同作業が得意
・融合化する力が強い
・伝統を守ることと革新の調和
・細部へのこだわり
原酒は多様な方がよい。一般的に出来の良いものだけでは
よいウイスキーはできない。できるだけ多様でなければならない。
一方で徹底した管理も重要。また樽の木の選定、伐採、樽づくりを
自前で行う、本物づくりには徹底したこだわりが必要とも。
日本人のモノ造りの原点がここにあるよう気がした。品質ブランドに関わるならば、
どんなことがあっても妥協せずに徹底して行う。日本の風土文化の強みを生かし、
他にできないモノ造りを行うこと。今一度日本のモノ造りを見直していかねばならない。
最近の若い人は考える力が落ちている?
「最近の若い人は考える力が落ちている。大学でもそれはひどくなっている」
といった話をよく耳にします。何でもネットで検索すればすぐにわかってしまう時代だから、
確かにそうなのかもしれない。
私がそれを感じたのは、中学、高校時代でした。私自身が考える力が相当低いなと
感じることがあった。特にそれは授業、試験などの学校での勉強時間であった。
考えなくても前に進めばよい。試験さえクリアすればよい。
むしろ試験でよい点数をとって、少しでもよい大学に行けばよいという風潮が強かった。
大学に入ると、そこはレジャーランドであった。多くが週末や長期休暇を過ごし、
そのために稼ぎのよいアルバイトは何かを考えていたように思える。
会社に入ると、毎年ある会社行事や期末は業績に追われた。結婚し、住宅を購入し・・・。
よっぽど何かがなければ深く考える習慣はどこにもない。
だから今私達よりも若い世代は「考える力がない」といっても自分自身もたいして考える力はないのだ。
50歳代も多くは同じだと思う。
ならばどうするか。環境を変えて自分を追い込むのだ。考えざるを得ない場所へ。
自分を逃げられない状況に思い切って持って行く。
そこで初めて終わりのない「いったい何のため」「どうやって」を考え始めるのだと思う。
しかしそれが幸せかどうかは別の問題。
内発的な動機で変化するために
「言われてやる」「会社の方針だから仕方がない」「他社がやり始めたから
ウチもそろそろ考えなければ」こういった変化には「なぜ自分はそれをやるのか」
といった内発的な動機はない。内発的な動機?どうやればそんなものが生まれて
くるのか。原点にかえってみると次の2つを自分自身に問い、考え、答えられな
ければならない。
①自分はいったい何者か?
②自分は社会の歴史の中で、どこにいるのか?
①自分はいったい何者か?
は自分の個性、特異性、強みや弱みを周りとの関わり合いの中から相対的に
定義づけること。
②自分は社会の歴史の中でどこにいるのか?
は、大きな社会単位の因子、きっかけ、結果という連続する変化の中で
今自分はどのあたりにいるのかを認識すること
この2つの問いを、住んでいるコミュニティ、所属する会社や組織、家族、
自分自身という対象で考えることが、「内発的な動機づくり」の近道なの
だと思う。

